らしくあれ

 

 ついに「らしさ」というものを考え直す時代になってきて、この題名はなんということだと思ったかもしれない。しかし私が言いたいのはこのことではない。

 現在、「男らしく」「女らしく」あることに疑問を持ち、それを口に出して言える世の中は昔ばかり回顧する年寄りがいう彼らの時代よりも生きやすくなっているのではないか。未だに「らしく」振る舞うことは強要されてはいるものの、それでもずっと守ってきた慣習をぶち壊さずに「今守っているこれこそが一番ベストだ」と思い込んでいるよりは一旦ぶち壊してしまって、それでもまだそのやり方が良かったというのならそれは仕方のないことだと思う。しかし別のやり方を試さずに守ってばかりじゃ何も進まない。

 

 私がいきなりこんなことを思ったのはフレデリックのNewEPの発売があったことによる。彼らの新しい音楽を紹介する文を読む中で、大体決まり文句は「フレデリックらしい曲」だと思った。別にこれが悪いと言いたいわけではなくて、私が何を言いたいのか一度耳を貸していただきたい。

 

 まず、フレデリックは初期の曲と比べてメッセージ性もメロディーも今とは全くとは言えないが変化してきた面が大きいと感じている。今の歌詞は、なんというか、明示的というか「バジルの宴ってなんのことを表しているんだろう」と考えるというよりも彼らの「音楽大好き!!」という気持ちが前面に表れていて(『対価』や『シンクロック』のような)、それが歌詞にも出てきていて読み取りやすくなったと思う。

 今回のNewEPも、リモート収録で作られたりレベルミュージックを参考にしたりと確実に新たな分野に挑戦している。今までのフレデリックと今とこれからのフレデリックは違う段階に達しているのにもかかわらず曲を受け取った側からすればそれはすべて「フレデリックらしい曲」となっていることはなぜなのか。

 

 私は彼らが新たなことに挑戦し、進出してもなお「フレデリックらしい」と言われるのは、それらがフレデリックにしかできない音楽だからだと考える。聴き手からすれば彼らの曲を聴いた時に、それまでの彼らの曲を踏まえたうえで「この曲の感じはフレデリック」だなと感じてしまう何か特別なものが含まれているのではないか。それが何かは私にはわからないが、それこそが人々がフレデリックに惹きつけられる要因かもしれない。これはどこかで言っていたかもしれないが「フレデリック」という新たな音楽ジャンルが成立したことで「フレデリック」の音楽の幅が広がり、唯一無二の存在になったと感じている。いちファンの目から見ると確実にそうだ。

 

 彼ら自身が「フレデリックらしさ」とは何かについてどういう考えを持っているのかはわからない。しかし私たちはこれでもか!と彼らに惹きつけられてしまう。

 このNewEP、そして今度のツアーからさらに私の中で特別な存在になるのは間違いない。

サファリとスーファミ

別に無理に知ってほしいわけじゃない。だけどなかなかに偏食な私が好んで嗜むものはたぶんきっとどこかで繋がっているあなたも好きになるかもなと思って言っているのだ。私が好きなあんなアーティストやこんなバンドは今回これだけ素晴らしい音楽を世の中に放ったということを誰かに耳元で鼓膜が破れるほど叫んで聞かせたい。推しは推せる時に推すものでしょう?

今どきCDじゃなくてもサブスクとかYouTubeとかTwitterとかいろいろ知るきっかけになる媒体は沢山あるのになんであなたはこんなに素晴らしい人を知らず、そして私もあなたが推す素晴らしいアーティストその他諸々を知らないのか、それは食わず嫌いなのか、新しい道を開拓していくことに消極的なのかわからない。けどまあ頭ごなしに肯定して盲目になってしまってはファンたる意味を見失ってしまうし、今現在私も危機的状況である。いい面もよくない面も分かってこそのファン、そんな人に私はなりたい。何も知らずに死んでいく私、あなた。お互い様ですね。自分が無知だと知ればそれは自覚のある無知だから救いようがあるらしいですよ、前向きにいきましょうね。

安全第一

朝ごはんを食べずに家を出たから12時で大変お腹を空かせていた。だからといって昼食を買えるような手持ちはないし、お金を下ろそうとも思わない。きっと午後からの講義でばっちりお腹が鳴って、食べておけばよかったと後悔することが想像に難くなかった。音楽を聴くことと食べることが生きがいの私としては、二食も食べていないことはイコール半分死んだようなものだ。好きなものを好きなだけ摂取して生きていけたらどんなに幸せなことか。でもたぶんそれは嫌なことが人生の八割ぐらいある残り二割の少ない幸福に出会った時に生きていて良かったと感じるのだと思う、好きなバンドのツアーに全公演参加するよりも自分が行ける公演に全力を投じるみたいな。そして先程私の世界で一番好きなバンドの対バン相手が発表されて、それがまた世界で一番好きなバンドであったために今現在夢心地である。唯一行けるライブに相手を知らず応募した結果のこの状況、幸せとはこの事を言うのかと味がなくなったことも気づかずに噛み締めている。いつもは信じてないし、頼ったこともないけど今だけは言わせてください、神さまありがとう。私の愛するユニゾンフレデリックが同時に存在する世界に生きていてよかった。「死なない理由を/生きてく理由をそこに映し出せ」って言ってるけど、それはあなたたちが理由だってこと、気づいてくれるかな。

ミルクボーイ

嫌いなもの→残りが折り紙ぐらいのトイレットペーパー→パントマイムで大爆笑狙う奴→爪に入りこんだ土→朝食がフルーツの女→ナマコの顔→おなかの張り→リア充の定義が「クリスマスに一緒に過ごせる相手がいる状態」の世の中→かさ増し用のコーンフレーク→靴下の親指の穴→ナンパの仕方があやマンジャパン全盛期の頃のオリラジ藤森→理屈でたたみ込む喧嘩中の彼氏→下着のタグ→具の無いカレー→レクでやるアイスブレイクの遊び→ビクともしない雑草の根→年賀状のおみくじシールに小吉選んでくる同級生→イオンのくそ混む時期のレジ→時間割いちいち聞いてくる隣の席の男→こたつの中で冷たい足がぶつかるとき→きつく結ばれたビニール袋の口→チケット代に発行手数料とかシステム手数料とかもろもろ付け加えるチケ会社→野菜しか入ってないカレー→れんこん

浜千鳥

グランジロックなるものに手を出した。洋楽には全く明るくなかった。暇つぶしに聴いてみたらこれがまた完全に魅入られてしまった。彼らは日本のバンドだけどいい意味で日本っぽくない、私には完全に新しい世界だった。まずイントロが段違いで、まじでかっこよすぎて聴き始めて3秒で惚れた。それぞれの自己主張が強すぎるしうるさいけどなぜかひとつになれているのが不思議だし、リズム隊やばい。感化されてベースを始めようかと今本気で考えているぐらい。もしベース始めようかなって思っている人がいたら連絡ください。一人で楽器屋に行くのはあまりにも敷居が高いのです。一緒に初心者用のやつ買いに行きましょう。それはいいとしてボーカル。ボーカルはとりあえず声がいいし、少ししゃがれた感じもあってスローテンポのバラードっぽい曲にもバッキバキのロック調の曲にもはまっている。ライブは行ったことないけど絶対にカッコいいと確信しているし生で聴いたら気絶する可能性も大いにあると思っている。ライブ音源聴く限り収録されたもの以上の熱量があるし、そしてまたビジュアルもいい。「顔から入るとかロックじゃない」とかそういうのは置いといて、見た目が良いのは一つの武器なので、ね。MVのお洒落な感じはビジュアルがひとつ手伝っていると思うから。私が惹かれたのは曲はもちろん、存在もあると思う。ゴリゴリのロッカーなのに儚くて消えてしまいそうなのが良かったのか、はたまた初めて聴くグランジというものが私に合っていたのか、それ以外なのか私自身よくわかっていないが、とにかく存在感がそこらのロックバンドにはないものがある。気になった方はまずはユーチューブとかSNSでチェックしてほしいし、アルバムも出てるので聴いてみてね。普通に話している姿を見ると少しフワフワしていて音楽やっている時とのギャップがあるのがとても良いよ。最初はサブスクで聴くよりもMV見ながら聴くといいかも。来年はワンマンあるみたいなので辺鄙なところに住んでいる私は行けませんが是非是非是非是非行ってみてください。年末フェスもたくさん出ます。それでは誰にも教えたくないけど教えたい、w.o.d.(webbing off duckling)っていうめちゃくちゃカッコいいバンドの布教でした。

神戸発バンドはやばい。

 

https://youtu.be/kDCIDLHTmQQ

「丸い真理を蹴り上げて、マリー。」

https://youtu.be/T8ta34hFm5w

「1994」

ナターレ

今日も学校もないのにバイトにも行かずにベッドの上でこれを書いている。付けっぱなしのテレビがうるさい。こういう日に限って晴天なのが恨めしい。今日こそカフェ巡りでもしてお洒落な一日を過ごそうと思っても、目が覚めたらそのやる気は夢の中に置いてきてしまった。こうなったらひたすら本を読もう。

「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本がある。まだ読んでいる途中。人種差別は昔から嫌いだった。小学生の頃に自由研究でキング牧師をまとめてから、マイノリティでないにしろ出身地、肌の色、社会的地位で区別される社会が子供ながらにおかしなことだと思っていた。慣習、常識と言われるものはとても怖いもので、今立っている所とは違う世界に足を踏み入れてみないとなかなか疑うことしない。親から教えられたもの、友だちがやっていること、その他周りを取り囲む環境そのものが常識だと誤認してしまう。私たちが何の宗教にも入っていないのに毎年初詣は神社でするくせにお墓はお寺さんに頼むとか、もうめちゃくちゃ。まじで意味がわからない。うるさいテレビから聞こえてくる会話も常識が混濁した臭い泥水だし、それを自分たちが飲んでいることなんて誰も気がつかない。だからみんなみんな、他人の靴を履いてみやがれ。そしたら大団円、永遠の浅い眠りにつけるからね。

才能とは

才能ってなんなのか、考えれば考えるほどわからない。私は昔から人より少し勉強ができた方だった。負けず嫌いな性格もあってのことかもしれないが、勉強だけはできた。でもそれはコツコツ頑張っていたからであって授業を一回聞けばすぐできちゃうようなやつでは無い。それを人は天才と呼ぶ。才が天から与えられたものと読める。一方で、コツコツ続けることも才能だよと言う人もいる。それは努力と呼ぶ。しかし漢字のどこにも「才」の字がない。それは才能なのか。私の中で「才能」とは完全に前者の認識であった。(今でもそれは変わっていない。)

話は変わるが先日、ジブリの大博覧会に行ってきた。展示を見れば見るほど私にはないものばかり。ジブリは好きなので純粋に楽しんではいたが、なぜ私はこういう発想ができないのか、なぜ才能は私のところに降りてきてくれなかったのかと悔しかった。それなら努力しろというかもしれない。(言いたい人は勝手に言ってろ。)この間Twitterで、努力している時点でもう負けているようなものだというニュアンスのものを見た。確かにその通りだと思った。才能には負けるのだ。私がいくら勉強を頑張ってやったところで、あの小学生にして数学検定受かったような人には勝てっこないのだ。

なんと不平等なのだろうか。生きている意味なんてあるのか。毎日課題やらメールの返信やらバイト、サークルで忙しくしているくせに何も得られず就職できるかもわからないお先真っ暗なこの私の人生、果たして存在していて良いのだろうか。

才能がないだけでと思っているかもしれないが、この先の人生を考えると一つでも何か人より圧倒的にできるものが必要だと思う。勉強でも絵でもコミュ力でもなんでも、強みは生きる糧だ。

何もない私は何かを持っているあなたたちを一生妬み嫉み恨み嫉妬しながら最低の人生を送ることになるのは結構前からわかっていたので、こんな最低の自分なんか死ねばいいと思いつつも死ぬのは怖いので今こうして生きているわけであるが、まあ、何が言いたいかというと、何もない私に何か才能的なものがほしい、できれば分けてくれということである。

そんなことでこんな締まりのない文を書いてしまって申し訳ないし、早く寝ろって感じだが、まあ、そういうことで今日はこれくらいにしておく。

愚痴っぽくなって申し訳ない。次はもっと文学的で綺麗な記事にするように努力する。最初だからこれで勘弁してください。

もう遅いので寝ますおやすみ😘